日本全国で、官民が連携したクルーズ船の受け入れ態勢の整備が急ピッチで進んでいます。

USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)の裏手にある港湾でも官民連携での港湾整備が進められています。

クルーズ事業はこれからの日本の観光産業の基幹になるといっても過言では有りません。



USJでは関西空港へのLCC路線拡大によるインバウンド旅客の拡大の恩恵をそのまま享受している格好です。

そのUSJのすぐ裏側にある天保山の港湾で、民間ノウハウを活用した整備が進められています。

民間の資金も使って、オリンピックに向けた港湾インバウンド増加の上昇気流をつかもうという大阪市の決意と活動です。

新聞記事でも全国で港湾の整備が加速していることが報道されています。

 

(日経新聞より)「官民が連携してクルーズ船専用港の整備に乗り出す。国と自治体が専用埠頭をつくり、クルーズ船会社が旅客ターミナルを建設する。横浜市と日本郵船が横浜港で整備を計画、海外大手も地方港に投資する。政府は施設整備したクルーズ船会社に港湾の優先使用を認める。クルーズ船は寄港地への経済効果が大きく、官民連携で訪日客の受け入れ体制を整える。日本の港湾はほとんどが貨物船向けでクルーズ船専用港は少ない。このため国と自治体は港湾に大型船の寄港に対応した専用の埠頭を整備する。訪日客の受け入れには税関や出入国の手続きができる旅客ターミナルも必要で、1カ所当たり約10億円かかるとみられる。船会社に建設費負担を求める代わりにターミナルを優先使用できる優遇措置を設けて投資を促す。」

世界でもっとも著名なクルーズの一つに、カリブ海クルーズがあり、いくつかのオペレーターがいますが、その中にディズニークルーズがあります。
 
洋上のディズニーランド、120%の非日常の世界です。
出所:ディズニークルーズライン
 
私たちの浦安にはディズニーリゾートがあり、そして広大な海があります。そこから帰結される私たちが目指すべき道は一つしかないように思います。
 
しかしながら、超えるべきハードルは低くはありません。かつての東京ディズニーランド誘致も、京成電鉄、三井不動産、みずほ銀行(興銀)、千葉県知事など凄まじい熱意と強引とも言えるようなリーダーシップ、そして強運、人の輪のつながりで綱渡りでなんとか実現にこぎつけ、そして今の大成功につながっています。

次なる発展のために、今の時代を生きる私達は動かなくて良いのでしょうか?特に、港湾整備のようなインフラの国からの補助金は早い者勝ちです。

クルーズターミナルの設置は、通常時は地域活性化の起爆剤になるというメリットはもちろんありますが、大型客船が浦安に寄港できるようになれば、浦安の一番の課題である災害時の対応能力も格段に上がるという非常に重要な効果があります。
 
大型客船には海水の淡水化機能があり、厨房があり、宿泊施設があります。そして医療機器さえもあります。
 
同時に大量の人の輸送も可能です。
 
熊本地震の時も、大型フェリーが活躍しました。




 

「2016年4月14日に始まった熊本地震。発生から1週間もたたない4月20日に、270人の自衛官とトラックなどの車両80台、救援物資を満載し、神戸港から熊本・八代港へ派遣された大型フェリー「はくおう」(1万7345総トン)が同地で5月末まで、1か月以上にわたり活躍しました。

同船がその設備で被災者向けの宿泊、供食、入浴サービスを開始したのは4月23日。それ以来、5月20日までに累計2000人を超える被災者へ「安息の場」を提供しました。乗船した被災者からは「余震の不安もありませんし、久しぶりに足を伸ばして眠れ、のんびりできました」「お風呂でリラックスできました」などの感想が寄せられているといいます。」(日経新聞)

浦安にとってのクルーズ船の誘致は単なる観光活性化に留まらないのです。

大型船が寄港できる港湾の整備は、浦安の未来を長期にわたってあらゆる側面から支えるインフラになるはずです。

もしそれが実現できれば、新浦安の魅力は拡大し、その価値を大きく向上させることができます。

このような壮大なスケールのプロジェクトは、単体では不可能です。しかしかつてのディズニー誘致のように、本気でやればなし得ないことでも無いように思います。

かつての東京ディズニー誘致から学べること

ディズニーランドの誘致の歴史はまるでビックサンダーマウンテンのようなジェットコースターのような出来事です。オリエンタルランド社も以下のように述べています。

(出所:オリエンタルランド社史)

1974年2月、当社はディズニー社へ書簡を持って正式に誘致を申し入れ、ディズニー首脳の来日視察を要請しました。さらに同6月には社長の川﨑がディズニー社を訪問し、ディズニー社社長と会談を行い、ディズニーランドの日本誘致を希望する旨を改めて表明するとともに、首脳の来日を再度懇請するなど、ディズニーランド誘致に向けた動きは一気に加速していきました。

そして1974年7月、ディズニー社に対し、浦安開発地域の適地性などついてまとめた研究レポート「Oriental Land Feasibility Study Report 1974」を提出し、首都・東京に隣接する、千葉県浦安地区がディズニーランド建設に好適地であることをアピールしました

当社の誘致活動に応えて、ディズニー首脳の来日が実現したのは、1974年12月のことでした。

あらゆる準備を万全に整え、ついに12月4日、運命の日を迎えました。当日は会場となった帝国ホテルで、ディズニー社視察団に対して、浦安地区へのディズニーランド誘致計画に関するプレゼンテーションを実施しました。浦安地区とその周辺の航空写真やマーケティングデータなどを示し、長期的な日本市場価値の有望性、開発予定地が日本の中心である東京エリアの一角に位置する点などを訴えました。

帝国ホテルでのプレゼンテーション終了後は、当時はまだ数少なかったサロンのついたデラックスバスにディズニー社一行を乗せ、浦安地区を案内しました。さらに当社役員とディズニー社首脳はヘリコプター3機に分乗し、開発用地を上空から視察。首都圏に隣接していること、三方を海や河川に囲まれており非日常性が高いことなど、ディズニーランド用地としての適性や特徴を説明しました。一行は、とりわけこの航空視察に大きな関心を示しました。 2日後の12月6日。両社の間で会談が持たれ、当社はディズニー社より、「オリエンタルランド社とともにディズニーランドのテーマパークを建設する可能性を追求したい」旨の表明を受けたのです。日数にして3日の出来事でしたが、雲をもつかむような時から、長い年月と誘致実現に向け情熱を注いだ当社メンバーの長年の苦労が素晴らしい形で報われ、川﨑が長年にわたり描き続けた夢が、ここにおいて「基本合意」という形で結実したのです。

また、特筆すべきは3日というスピードで決断するディズニー社の判断力や、当時JR京葉線や湾岸道路もなかった埋立地を選ぶ戦略的先見性であり、こうした経営マネジメントやそれを支える論理的な思考に、当社としても強い感銘を受けました。 基本合意後に着手した作業は、開発用地がディズニーランドタイプのテーマパークを建設・運営する上で適しているかどうかの検討作業でした。この第1フェーズの作業は1975年1月に開始。約9カ月後、ディズニー社は第1フェーズの作業を「オリエンタル・ディズニーランド構想」としてまとめ、千葉県浦安地区をディズニーランドタイプのテーマパークの建設に適しているという結論とともに、それに基づくサイト開発プランを示しました。 当社とディズニー社は作業を次のフェーズに入るための条件交渉を数次にわたり行い、1976年6月には第2フェーズ検討作業の契約を締結。「オリエンタル・ディズニーランド・プロジェクト」は、いよいよ具体的なデザイン段階へと進んで行きました。 また、1977年3月にはテーマパークの名称を「東京ディズニーランド」と、正式に決定しました。

ディズニー社による第2フェーズの検討作業は1年以上を要し、1977年9月に当社に対するプレゼンテーションが行われました。 こうしたパーク建設に向けた具体的な検討作業と並行して、ビジネス条件の交渉も進められました。当社の悲願であるディズニーランドの誘致という夢と、ビジネス条件交渉という現実の間で、時間をかけ幾度となく協議を繰り返し、また、時に緊迫した交渉を経て、1979年4月30日、カリフォルニア州バーバンクのディズニー本社において、当社 髙橋社長とディズニー社 ウォーカー社長との間で、パーク設計、建設、運営に関する内容が盛り込まれた「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約」(基本契約)が調印されました。 基本合意以降、実に5年に渡る歳月の中、両社は目標に向かって粘り強く協議を続け、これをもって開業に向け大きな一歩を踏み出しました。

一方、ディズニー社との契約調印をひかえて直面していたのは、東京ディズニーランド・プロジェクトを推進するための資金繰りです。数百億円とされていたパーク建設資金は、思うように調達が進みませんでした。 資金調達に奔走する日々が続くなか、東京ディズニーランド事業を県政の事業の大きな柱と位置付けていた千葉県の後ろだてを仰いだ当社は、1979年4月、当時の沼田副知事とともに訪れた日本興業銀行(当時)に温かく迎え入れられました。東京ディズニーランド・プロジェクトを“こころの産業”と位置付けた同行の呼びかけにより、22の金融機関による協調融資団が結成され、プロジェクトの資金調達に大きな足掛かりを作ることができたのです。

1980年8月に結成されたこの協調融資団なくして、今日の東京ディズニーリゾートは存在しなかったと言っても過言ではないほど、当社にとって大きな出来事でした。

東京ディズニーランドの誘致は、凄まじい信念を持った川崎さんの元に、賛同者が一人二人と増えていき、当時の巨大な金融組織や千葉県も支援に回ってもらったことでギリギリのところで実現したプロジェクトです。

強大なプロジェクトは誰かが協力なリーダーシップとある程度の資本力を持ちながら推進し、それを行政側も全面支援するような建て付けが必要です。

川崎社長と高橋社長を裏から協力にバックアップした千葉県がいたからこそ、銀行団も融資の話が纏まりました。

ディズニークルーズを本気で誘致するために今すべきことは、まさにかつての東京ディズニー誘致の歴史が、大きな示唆を与えているように思います。そしてそのプレイヤーはかつての京成電鉄 川崎社長、オリエンタルランド 高橋社長と千葉県に倣い、現代ではオリエンタルランド社自身と浦安市が強い信頼関係の元、リーダーシップを発揮して行かなければなりません。

そして千葉県や国土交通省も巻き込みながら物事を推進していかなければ、実現は有り得ないでしょう。

逆にそのようなフォーメーションが出来上がれば、世界に先駆けてディズニークルーズの誘致を浦安市が勝ち取ることが出来るかもしれません。

動かなければ何も起きませんが、これから縮小していく日本経済を支えるため、このような壮大なプロジェクトについて、議論が開始されても良い転換期を迎えているように思えます。