かつて210~225キロで走っていたころの0系新幹線や100系新幹線には食堂車がついていました。

子供の頃は食堂車で食べるのが夢でしたが、叶わぬまま食堂車は廃止され、今ではワゴン販売が主流となっています。

このワゴン販売ですが、果たしてその売上は最大化されているのでしょうか。




よく販売員の販売スキルに焦点を当てて増収セミナーなどが開かれたりしていますが、そういう人頼みのセールス活動は原始的であり、マーケティング戦略という意味では、戦略性はあまりないかもしれません。かつ、トップセールパーソンが抜けると売り上げが一気に落ちるという弱みにもつながります。

マーケティングとは売れる仕組みを作る活動であり、企画者が頭を使って売れるポジティブサイクルを作り出すことにあります。

東京―大阪の間では平均的には2回くらい横をワゴンを引いた女性が通ります。例えば2回とすると1時間に一度訪問販売が来るわけですが、2回目に来た時にはもうすぐ大阪に着く、そんなタイミングです。そんな時にはもうすぐつくからいいや、となってしまい販売には結びつかないでしょう。

また乗車してすぐにワゴンが来ればよいのですが、後ろのほうの車両でなかなかワゴンが来ない場合はお客さまが寝てしまう可能性が高まり、大きな機会損失があると思われます。

お客さまを移動させないというホスピタリティの発想で訪問形式のワゴン販売が行われているのかもしれませんが、売上を最大化している方法だとは思えません。

新幹線では16両編成400メートルの車両を2名で担当しています。

そこで一考ですが、ちょうど5号車と12号車にワゴンを常駐させてはどうでしょうか。その位置であれば、最大でも4両動けばいつでもジュースお弁当を買いに行けます。飛行機ほど隣の人を気にして出にくくはないのが新幹線の良いところでもあります。

改めて「売店」設置という考え方

かつては中間車両に売店が一つ用意されていました。とても風情があって旅をしているという実感がある場所でした。ノスタルジックな時間が流れる場所でした。

出所: JR東海

しかしながら新幹線の高速化と共に食堂車がなくなり、売店もなくなってしまいました。正直寂しい時代の流れです。

ただ、旅客の立場からしても最大で8両動く必要があり、歩くのがめんどくさい、となる可能性がありますし、座席数も減ってしまいます。またグリーン車の往来も増えてしまいます。

従って、ワゴンは動くのではなくて、必ず固定位置にいていつでもそこに来てもらえば商品が買えるように車内放送や車内案内図で告知をする方法はどうかなと思います。しかもコストはかからず現行の設備と人員で即日対応できます。

現行システムにおいて、お客さんが喉が渇いても車内販売に買いに行かない理由はどこにワゴンがいるか分からないからです。どこにいるのかわかっていれば、お客さま自ら買いに行くのではないでしょうか。

コンビニでは場所が最も大切な要素であると言われています。すぐそこにセブンがあるのに、そのほんのワンブロック先にでも新たにセブンやその他コンビニが作られたりするのは、夜中でもコンビニに人がジュースやお菓子を買いに行きたい時に、より気軽に行ける近い位置に出店することで、既存競合よりも自店に近いお客さんは根こそぎ奪えるからでしょう。

それと同じで、いつ売りに来るか分からない訪問販売よりも、1-2分で行ける距離にあるコンビニのような販売ワゴンがあれば、自分で買いに行くだろう可能性が高いのではないかという提案です。

線路容量の問題でオール二階建てとなったMAX系新幹線ではより顕著に効果が出るでしょう。ワゴンだと階を移動できない、またはワゴン用のエレベーター使うと時間がかかりすぎるということで方からボックスでぶら下げて訪問販売をしています。すぐに品切れはしますし、種類も詰めない、悪いことばかりです。どうせ人件費がかかるのならば上記の方法で固定位置にワゴンを配置すれば、売上は格段に伸びるように思います。

そんなE4系マックスも時代の流れで引退し、E7に置き換わります。なんだか淋しいものです。



そういえば成田新幹線という構想があった浦安

成田新幹線は成田空港と東京都心をつなぐ全長約65kmの新幹線として1971年策定の全国整備新幹線計画に組み込まれました。国鉄の資料によると、東京駅の京葉線ホームを発車した成田新幹線は、東京駅~越中島貨物駅までは地下トンネルで、そのルートは現在の京葉線とほぼ同じところを通る計画でした。

越中島貨物駅構内で地上に出た後はそのままほぼ直線で東へ進み、私たちの街浦安を通過し、東西線の南側を並行して西船橋駅の手前まで進みます。

西船橋駅の手前で東西線を離れ、下総台地をトンネルで貫通し、武蔵野線の手前で地上に出た後は現在の北総線千葉ニュータウン中央駅の位置に設置される予定だった新幹線用の「千葉ニュータウン駅(仮)」まで直線で進みます。この千葉ニュータウン駅が成田新幹線唯一の途中駅で、周辺で開発中だった住宅団地「千葉ニュータウン」の住民の利便性を図るため計画されたものでした。

千葉ニュータウン駅から先は現在の北総線と並行し、さらにその先で成田スカイアクセスとほぼ同一ルートで成田空港へ至る予定となっていました。

空港内はすべて地下トンネルとなっており、終点の成田空港駅は2面4線のホームとなる計画で、空港内のトンネルは将来ターミナルビルが増設された際、駅を追加できるよう考慮されていました。

新幹線の最高速度は250キロ、東京~成田空港が30分で結ばれる予定でした。

しかしながらこの計画が表に出ると、建設予定地であった住民から一気に反対運動が起きました。通過するだけで何のメリットもない、という住民の反対でした。

確かにそうですね。当時は今ほど静音技術も高くなく、煩くなるだけ、高架線で日照が悪くなるとなれば反対するのも分かります。千葉ニュータウン駅構想はこの反対を押し切るための理屈だったのかもしれません。

反対運動は収まらず、結局計画用地を京葉線に活用することで成田新幹線構想は立ち消えた、かのように見えましたが数十年の時を経て、「成田スカイアクセス」として復活することとなったわけです。新幹線ほど早くはありませんが160キロで37分で成田と西日暮里を結びます。

建設できる場所の確保の問題は残りますが、スカイアクセスのような形でもっと浦安やその他の沿線地域にも新駅設置の計画が織り込まれていたら浦安にも新幹線が通って、通勤にも使えていたかもしれません。

とはいえ成田新幹線ができていたら今の形の京葉線はできなかったでしょう。そうなると京葉線は新木場からもともとの計画であったりんかい線のほうに進む路線になっていたことでしょう。そして浦安駅近辺は東西線と新幹線が通る関東屈指の駅がある地域になっていたのかもしれません。

歴史とはその時々の意思決定や人々の想いで、その後の未来が大きく変わるということがわかる一つの事例かもしれません。